日々の雑記

なにぬねの
[PREV] [NEXT]
...... 2022年02月17日 の日記 ......
祈年祭


■ 一粒万倍の大安の日に手放した財、そして得た大きな愛の幸福   [ NO. 2022021702-1 ]
今日は大安。

一粒の種を撒けば万倍になって返ってくるという。

わしは、いままでわしを支え助けてくれた大切にしてきたフィギュアをごっそりとあるホビー店に持ち込んだ。

空気を汚す車をあまり使いたくないけれども、

今日は神様のお赦しを得ることができる日とききますし、

申し訳ない気持ちだけれども、少し遠いいそのホビー店まで車でフィギュアを運びました。

車に詰め切れないぐらい。

どっさり。

わしの体重と同じぐらいだったかも、

最後部の物置、後部座席空間、運転席の隣の座席、

安全第一で後方確認できる空間は確保し詰め込めるだけ詰め込んで出発。

行く途中、運転の最中、日月の神様の愛を感じて涙がぼろぼろ流れました。

多摩地区の外縁を成す環状線を泣きながら運転している態。


深い愛を感じ、嬉しさで涙が出ます。


お店について、引き取ってもらうに、お店もタダで受け取れないという事でした。

いままでわしはお店にお世話になった感謝の気持ちとして受け取っていただけませんか、富の循環も考えていたり、一応大切な品なのであまりお金で売りたくないということも申し上げてしまった。

つまり最終的にわしの我を押し付けてしまった形。

そうしてと頼み込んで無理を言ってしまったわしに、お店の方は譲歩してくださり、
それならば、一品1円で買い取る形で、個数×1円という風にしつつ、キリの好い額をお支払いする事なら出来ますというように仰ってくださった。
お店にとってもそれなら都合が良いというようなことを仰ってくださった。
わしは大変感謝してそれでお願いしますと申し上げてお店の勘定を待ちました。

10分もしないぐらいで勘定は終わり、

割とあっさりと500円を在り難く頂いて、あっさり帰りました。

想像していた感覚と違ったけれども、きっとそれはわしのエゴがわしに見せた光景だっのだろうし、

現実、結果的にとても良かったです。


「結果を期待する必要はありません、失敗しても成功してもどちらでもいいのです。

体験することが大事なのです」

ということをSpace Era Channel☆や様々な所から拝聴して知っていたので

行動して体験できたことも、とても嬉しいことでした。


そして帰り道、

運転しながら再び日月の神様の深い愛に包まれている感覚でとても嬉しくてボロボロ泣きながら家まで帰りました。

自分は全ての存在に生かされていると体感して判りました。


自分で生きているのではなく、「在り難く生かされていて、体験させていただいている」

目に映る全ての存在に生かされていたのです、それはこれからも変わりません。


日月の大神さまの深い愛だけではなく、

地の神様、様々な神さま、霊、人、動物、小動物、虫、草木、のお世話になりわしは生かされています。

神様からお借りしている自分の体も大切にしていきます。

土、空気、日差し、目に映してきたもの。

目に映るモノ、肌で感じてきたもの、肌で感じるもの、

耳で聞くもの、まだまだたくさんありますが、

それらすべてに生かされていて頭を低くしてすべてに愛と感謝を捧げるという、わしはそういう存在なのだと知りました。

それを学びに来たのだと、同時に悪いこともしてきたのでその埋め合わせもしていかなければと思います。

すべて神に委ねていこうと思います。

わしは、自分も含め誰をも裁くことができないし、誰をも否定することができず、

わしにはそれらをする権もないしわしはただ改心して自分を大事にして、過去犯してきた同じ過ちを二度と繰り返さないように得た学びを大切にして、改心して嬉しい楽しいで過ごしていくこと。

そして神様にお呼ばれしたとき、わしは喜んで賜るお役をしたいと思います。

こんな嬉しいことは多分無いのだと思う。

余り言葉にすると、エゴに漬け込まれそうだし、この思考はここまで。






わしはとても幸せもので、きっとどんな苦しい報いを受けても日月の神様の深い愛を知ったわしは幸せと感謝をもってそれを恵みとして受けることができると感じました。

ある時、
お釈迦様のお弟子様の一人が。
お釈迦様の許を離れるとき、もし山賊に襲われ死ぬことになっても感謝して死ぬことができますという様なことをお釈迦様に仰って
お釈迦様はそれを聞いてそのお弟子様の旅立ちをお認めになったというような話を聞いたことがあります。

きっと、弟子さんが感じた感覚はわしが実感した愛されている感覚と似た感覚や心境だったのかな・・と思いました。

でも、人はみんな違いますし、他人の事はわしには判りません。

わしは日月の神さま、地の神様をはじめ、すべての存在に生かされつつもそれに気が付くことなく生きてきたと思いました。
大日月地の神の無償の愛で深く愛されているのに、それに少しも気が付くことができなかったこれまでのワシは不幸だったと思いますが、闇の中を歩いたからこそ無償の愛の偉大さ、大切さ、ただ与えるだけの尊さを知りました。

これをお読みくださる尊いあなたも、神の深い愛に包まれ常に愛されています。
私もあなたも、誰も彼も、生きとし生けるもの全て神の子であり、人の考えでは推し量れないほど深く深く愛されています。




車に詰め込む作業だけでも1時間くらいかかり、汗だくになってしまった感じ。
今日は少し疲れて、現在休みながらこうして日記を打っています。






...... トラックバックURL ......
  クリップボードにコピー

...... 返信を書く ......
[コメントを書く]
タイトル:
お名前:
メール:
URL:
文字色:
コメント :
削除用PW:
投稿キー:
祈年祭


■ 「大日月地神示」の神の愛の深さに涙が流れる。   [ NO. 2022021701-1 ]
このごろ涙もろくなりました。

また嬉しさで泣いている自分が居るのを観ています。

「大日月地神示」は
わしにとって愛の書であり救いの書。

「大日月地神示」を胸に抱いて目をつむると

安心、安堵、充足に満たされます。

愛されていてその愛が本の形としてまさに胸にあると実感できて強く癒されます。

これは執着になると良くないけれども。

神の愛に癒されます。

勿論ちょっと怖いお仕組みもあるけれども、

日月の神、地の神の深い愛を知り体験できる愛の書。

読みながら嬉しくて涙があふれます。


涙がぼろぼろ溢れる理由など頭で理解する必要なんてなくて、

胸で心で直接感じるのが適切なのだと思う。



尊いあなたにも「大日月地神示」を読んでいただきたいです。

大きな気づきや喜び、人生を変えてしまうぐらいの愛を感じつまらないことに感化されなくなったり、
我に振り回されにくくなると思いますので、是非お読みいただきたいです。


最近わしは泣いてしまう事が多い。


悲しいのではなくて嬉しくて泣いてしまう。


一人で寝室で「大日月地神示」を読み、静かに泣いている。

嬉しくて。

神の愛を知ればみんなそれだけで涙を流して幸福になり、

物欲とか金銭欲の支配から逃れて行けると思う。

つまり自分の我の支配が弱まると思う。

我が弱まればとても過ごし易くなります。


これを読んでくださる尊いあなたも、そしてわしも

苦しみや不幸を運んでくる「我」ではなく、

他者への無償の愛を選択することができます。

それができます。

そして愛を選択します。

愛は幸福を運んできます。

愛は与えることができます。

与えることは与えられるよりも大きな幸福を運んできます。

つまり愛の連鎖が起きると、与えて与えられるので

感謝と喜びに満ちる世界になります。

その時、お金も権力も必要なく、

恐怖も苦しみもなく、誰も見捨てられず、誰も孤独ではなく、喜びと感謝と愛に満ちる世界が誕生します。

...... トラックバックURL ......
  クリップボードにコピー

...... 返信を書く ......
[コメントを書く]
タイトル:
お名前:
メール:
URL:
文字色:
コメント :
削除用PW:
投稿キー: